印风·画格·石鼓文 ——吴昌硕艺术析疑
印风·画格·石鼓文
——吴昌硕艺术的几点析疑
韩天衡
印風・画格・石鼓文
――呉昌碩芸術に関するいくつかの疑惑を解く
韓天衡
篆刻的成功得力于石鼓文?
篆刻の成功は石鼓文によるものなのか?
我们首先得承认篆书对于篆刻的因果关系。“篆”是刻的基石,“刻”是篆的升华。近二百年来,大印家都写得一手好篆书,它本身就诠释了“篆·刻”的因缘。
然而篆书写得好,不等于篆刻好,篆而不能刻者甚多。如杨沂孙、莫友芝等皆是。
吴氏的印风当然是得力于篆书,然其戛戛独造的印风,恰恰非得力于他成熟期的石鼓文书艺。这也许会令许多人感到意外,但事实当是如此。吴氏印风的突起,当可确定于在其34岁。其丁丑34岁时所刻的“俊卿之印”、“仓硕”朱白两面印,即是典型的范例(图例一)。此后至60岁时,也就是其印作最具艺术性高峰段的这20多年。此一时段,其篆书的风格,更多地还在依傍借鉴杨沂孙、莫友芝,即使临写石鼓文,也还未脱出杨、莫书风,形成独特的风貌(图例二)。换言之,他书写石鼓文的成熟期是滞后且远晚于其雄浑新印风的确立。他石鼓文显示独特个人风格当在65岁以后(图例三)。尤其要指出,在吴氏石鼓文自成一格时,其治印亲力亲为者已不多,名声日隆的他,更多的精力与时间用于诗文、绘画、书法乃至社交。诚然,早岁避难时造成的时常复发的臂伤不能不是一个原因。对这一状况,吴氏有诚实的告白,他在七十一岁刻“葛祖芬”印时,款称:“余不弄石已十余稔(年)。今治此觉腕弱刀涩,力不能支,益信‘三日不弹,手生荆棘’,古人不欺我也。”(图例四)这的确是实话。“不弄石已十余年”,而此期间乃至之后吴氏依旧接件酬应,印作叠出,何以如此?这主要是有了多位能胜任的代刀者。
追其初始,在四十八岁时,就有因“臂痛不能应”而请夫人施酒代刀的记录。吴氏六十岁后为其捉刀代刻印者,计有儿子吴臧堪及徐星州、赵云壑、钱瘦铁诸弟子,暮年居寓吴家的王个簃也偶有捉刀。吴氏代刀之作,有篆后代刀的,也有全部代为的,晚年的缶翁也还是有少许自刻印,这些从配篆、用刀、做印、边款及气格上还是足以分辨的。
吴氏印风的辉煌期,正是他石鼓文趋上升期。故而说其篆刻的成功得力于石鼓文的说法是欠妥的,这也无需为尊者讳的。吴氏印风之大成,溯其本源,笔者认为应得益于:
(1) 去其依傍、开天辟地的创新精神,在其早岁处于因循守旧的印坛氛围里,他就自觉产生了“古昔以上谁为宗”及“自我作古空群雄”的壮志,令人敬佩,伟大。
(2) 对汉铸、凿印及秦诏、权量、古匋的广泛吸收和有古有我的高妙新奇的表达。
(3) 深研古封泥、汉篆额、魏晋砖瓦文字。如其所称,封泥之妙:“刀拙而锋锐,貌古而神虚。”即是他技进乎道的会心之论。
(4) 就近贤论之,于徐三庚、尤其是受益于吴让之、钱松为多,古则追周秦两汉,近则淫浸三家,神游今古,转益多师,而自辟径畦。这些,虚怀若谷的吴氏都有明确的交代。
(5) 超常敏感的艺术变通力、想象力和过人的天赋,更是成就了他的印风开宗立派的主因。在其早年刻“缶主人”印时,款称“得汉印烂铜意”。一个“烂”字,极其深刻而重要。他居然天眼别开,感受到人为之外大自然的奇妙演化力量,体味到人工铸凿的铜印入土千百年后,凭添剥蚀、漫漶、残破的人工复天成的双重艺术性,从几百年来前贤视为的容貌“丑陋”并训示“不可学”的“废弃”物里窥出别具独特可塑性的风神,化腐朽,出神奇,前无古人地开创了“做印面”的独特繁复手段,从而“既雕既凿,复归于朴”,营造出古拙、醇厚、苍莽、混沌的新印风。以他的“做印”论,其早年所刻“安平太”朱文印(图例五)径仅18毫米,而刻之深度达到4毫米。深刻无他,乃是为更好地为其“做印”的独门功夫,提供使线条和印面“烂”得“神”起来的种种可能。若能细细剖析领会此印的百般做印手段,即可证余所言之不诳。吴昌硕堪称是前无古人,后无来者的印坛巨星。
まず始めに私たちは篆書と篆刻の因果関係を認めなければならない。「篆」は刻の基礎であり、「刻」は篆の昇華である。近二百年における篆刻大家は皆篆書に優れており、その事実が「篆・刻」の因果関係を説明している。
しかし、篆書を善くするからといって篆刻にも優れているとは限らない。例えば楊沂孫、莫友芝等のように、印を刻せない者も非常に多い。
呉昌碩の印風は当然篆書から得ているが、素晴らしい独創的な印風は、呉昌碩の成熟期である石鼓文から得たものではない。このことは多くの人が意外だと思うかもしれないが事実である。呉昌碩印風の始まりは三十四歳の時と確定できる。丁丑三十四歳の時に刻した「俊卿之印」、「倉碩」朱白文両面印はその典型的な例(図例一)である。この後六十歳に至るまで、呉昌碩の印は芸術的なピークを迎えるが、この二十年余りの間、篆書の風格においては多く楊沂孫、莫友芝を模倣し参考にしており、石鼓文の臨書も楊沂孫、莫友芝の書風からは抜け出しておらず、その中から独自の風格を形成したのである(図例二)。言い換えれば、そこには時間差が存在しており、呉昌碩「石鼓文」の成熟期は彼の雄渾な新印風が確立されたかなり後のことであったのである。呉昌碩の石鼓文の独特な風格がはっきりと現れるのは六十五歳以後である(図例三)。とりわけ指摘しておきたいのは、呉昌碩の石鼓文が独自の風格を形成した時、既に自身で印を刻すことは少なく、日増しに名声が高まっていた彼は、多くの精力と時間を詩文・絵画・書法そして社交に用いていた。無論、若い頃に動乱から避難した際の腕の傷がしばしば再発したことも原因の一つであった。このことについて、呉昌碩は誠実に告白をしている、七十一歳の時に刻した「葛祖芬」の側款には「余不弄石已十余稔(年)。今治此覚腕弱刀渋、力不能支、益信「三日不弾、手生荊棘」、古人不欺我也。」(私はもう十年余り石に刻していない。今刻しても腕の力は弱く刀はすべりが悪くなってしまった。力がなく、「三日弾かなければ、腕が鈍る」という言葉をますます信じるようになった。古人は私を欺いてはいなかった)(図例四)これは事実であろう。「不弄石已十余年」(すでに十年余り石に刻していない)というこの期間、或いはその後も呉昌碩は依然として印の注文に応じ、次々と篆刻作品を制作しているが、これはどうしてだろうか?それは、数人の代刻者が存在していたからである。
その元をたどると、四十八歳の時「臂痛不能応」(腕が痛くて応じることができない)ため、呉は施酒夫人に代刻をさせたという記録がある。呉昌碩の六十歳以後の代刻者を数えると、息子の呉臧堪、徐星州、趙雲壑、錢瘦鐵等の弟子、また晩年呉昌碩宅に寄寓していた王个簃もしばしば代刻していた。呉昌碩の代刻作品は、呉が石上に篆書を書いてから代刻させたものも、最初からすべて代わりにさせたものもある。また、晩年の呉昌碩には僅かであるが自刻印もある。これらは布字、刀法、做印(印面の加工)、側款及び品格から見分けることが出来る。
呉昌碩印風の輝かしい時期は、ちょうど石鼓文に磨きがかかる時期であった。そのため、篆刻の成功は石鼓文から得たという見解は適切とはいえず、またこのことをタブー視する必要もない。呉氏の印風が大成した理由についてその根本に遡ると、次のいくつかを挙げることができる。
(1)模倣を取り去り、創新の精神を以て開拓した。呉氏は早期には印壇の旧習を墨守するという雰囲気の中にあったが、彼は自覚を持って「古昔以上誰為宗」(古昔以上に何を宗とするべきか)、「自我作古空群雄」(自らが古と為し、群雄も一顧にしない)という志を形成したが、それは人を敬服させる偉大なものである。
(2)漢鋳印、鑿印及び秦詔版、権量銘、古陶印を広範囲に吸収、古があり自己があるという、新鮮で優れた表現を行った。
(3)古封泥、漢篆額、魏晋磚瓦文字を深く研究し、封泥の妙を「刀拙而鋒鋭、貌古而神虚。」(刀は拙く鋒は鋭い、古朴を呈し表情や態度は穏やかである)と称した。即ち、呉昌碩は技術の修練を通じて道を悟ったのである。
(4)呉に近い時代の先賢を言うなら、徐三庚や特には呉譲之、銭松から得たところが大きい。古には周秦両漢を追求し、近くには三家に心酔した。古に思いを馳せ、多くの師から様々なことを学び、独自の道を切り開いた。これらについて、極めて謙虚な呉昌碩は明確に説明している。
(5)芸術に対する非常に敏感な対応力、そして想像力と人並み以上に優れた素質、それらは正に呉昌碩の印風が一派の宗となった要因である。青年時代に刻した「缶主人」印の側款には「得漢印爛銅意」(漢印の浸食された銅の味わいを得る)とある。「爛」の字は極めて深く重要な意味を持つ。呉昌碩は新機軸を切り開き、人為的なもの以外に大自然の素晴らしい変化の力に感銘を受け、人により鋳造された銅印が埋葬されて永い年月を経た後、侵食が加わり、見づらくなり、破損したことによって、人工物が自然に返るという二重の芸術性を感じ得たのである。数百年来に渡り先賢たちが「醜陋」(醜い容貌)とし、また「学ぶべきではない」言い伝えてきた「廃棄」物の中に、独特な新たなる可能性を見出したのである。そして滅び行くものの中から新奇を見出し、古人にも為しえなかった「印面の加工」という独特で複雑な手段を切り開いたのである。それによって、「既雕既鑿、復帰於樸」(刻し敲き、質朴に帰する)、古拙、純朴、広々とした、混沌とした新たな印風を打ち出した。呉昌碩は「印面の加工」論により、若い頃に「安平太」朱文印(図例五)を刻したが、それは直径1.8㎝にも関わらず、彫りの深さは4mmにも達した。彫りの深さは他でもなく、「印面加工」という独自の技術をよりよく実践するためであり、線と印面において「爛」が「神」(非凡な域)に達する種々の可能性を与えた。もしも詳細にこの印の各種手法を解読したならば、私の言うところがでたらめではないということが証明できるであろう。呉昌碩は正に空前絶後の印壇の巨匠というに相応しい。
对“俊卿之印”、“仓硕”朱白两面印,何时三改其“面”?
「俊卿之印」、「倉碩」朱白文両面印の「印面」が三度変化しているが、それは何時のことであるのか?
对此印的三改其面,笔者考察多年,涉及我能见吴氏书画作品的全部,之后,方得出如下结论:
此印刻于丁丑,即缶翁34岁时,在他钤用此印的50年里,却有三种大有差异的印面:
自34岁钤用至20年后的54岁丁酉春,此印石因四角呈深圆弧,印面已钤盖不能清晰,故磨下一层而重剔(别于重刻)。然九朽一罢的“做印“,其如前再现本来面目是极不易也不必的,故重剔后的此印,钤出的印蜕,则大别于先前(图例六)。
这是缶翁一生钟爱的常用印。然在八十二岁时被窃。缶翁嘱居家的弟子王个簃依原印摹刻一对,并继续钤用,直至缶翁去世。当然又是差别明显(图例七)。
拈出此印的考订,三换面而三种相貌,至少有益于对缶翁一生书画作品的鉴定。
この印の印面が三度変化したことについて、筆者は長年に渡り考察し、可能な限り呉昌碩の書画作品に触れ、その中から以下のような結論を得るに至った。
この印は丁丑に刻された。すなわち呉昌碩三十四歳の作である。呉昌碩がこの印を使用した五十年間において、印面は三種の大きな相違が出現した。
三十四歳から二十年後の五十四歳丁酉春まで用いる中で、印面が丸味を帯びてきたために、捺印してもはっきりとは見えなくなっていた。よって印面を少し磨いて一層を取り除き(再刻したのではない)、慎重に「做印」(印面の加工)をしたが、以前と同じ印面を再現することは容易いことではなく、またその必要もなかった。ゆえに一層削った後の印影は以前のものとは大きく異なっているのである(図例六)。
これは呉昌碩が一生愛情を注ぎ使用した印である。しかし八十二歳の時に盗難にあった。そこで呉昌碩は寄寓していた王个簃に原印を模刻させ、呉はそれを逝去するまで使い続けた。そこで当然の事ながら、また原印との明らかな差が出現したのである。(図例七)。
この印に対する研究から、三度印面が変化し、三種の容貌を呈していることが分かったが、これは少なくとも缶翁の生涯にわたる書画作品を鑑定する上で有益なものとなるであろう。
缶庐不工山水,山水画均为代笔?
缶廬は山水画を善くせず、全て代筆であったのか?
缶庐在世,尤其是归道山后,普遍认为吴氏不会画山水,并称所见者皆为王一亭代笔,实非。
其实,吴氏习画之初即兼工山水。最具说服力的即是他所作《山水八纸卷》(图例八)此珍罕之作,有朱孝臧词家对题八纸(图例九),由缶庐自存并传诸其子东迈。卷作于壬辰(1892)年时49岁。
山水卷装池于翌年,后载二十七家之二十八则题记,前二十二则为缶庐师友辈,先后为杨岘(二则),万钊、费念慈、周星诒、高邕、凌霞、金尔珍、沈公周、章钰、金尔珍、沈曾植、马一浮、郑孝胥、朱士林、王国维、陈三立、冯幵等二十一家。缶庐殁,付其子东迈,又延请诸宗元、冒广生、夏敬观、沈剑知、吴湖帆五家题记。后又有藏家属笔者题跋一则,总计二十八则。吴氏自装池后,至其下世历时三十四年,其间多次外出携卷求题,自珍如此,足见非自创之妙品,岂能如此。况其时吴昌硕与王一亭还尚无交际,据考吴、王相识当在1909年3月,即在绘此卷之17年后,不存在代笔之说。在题跋中杨岘称:“昌硕仁弟自画山水八纸,装治成卷,癸巳(1893)秋,七月下榻敝斋,出视率题” (图例十)。高邕的题跋更是指出此卷是作于其画室,跋称:“缶庐金石家,五十学山水,昨在李盦中,一挥得八纸,天生横行笔,今古皆不是,闯入大滌堂,嚇得石涛死。”又谓:“苍公今年忽画山水,此卷不学石涛而有石涛韵度,展玩数过,乃知此老胸中未易窥测。癸巳十月,高邕题于上海。”(图例十一)证据凿凿。可知吴氏是工于山水的,且具有不凡的水准,这当是铁的实证。附带要指出,国内有两家博物馆均藏有双胞胎的“听松图”。曾有此是彼非的争辩,而以拙文所刊出之“听松图”及其款题考鉴,可知“双胞胎”者,两无一真,皆为依样仿造的赝品。
缶廬は生前から、とりわけ逝去後、一般に呉昌碩は山水画を描くことが出来ない、全て王一亭の代筆だと言われてきた。しかし、それは真実ではない。
実際、呉昌碩は画を学びはじめた時に、山水画も兼ねていた。最も説得力があるのは、即ちこの非常に珍しい『山水八紙巻』(図例八)である。これは壬辰(一八九二)年四十九歳の作であり、朱孝臧詞家が八紙に対する題があり(図例九)、呉昌碩自ら蔵し、子の東邁に継承された。
翌年、山水巻は表具され、その後方には二十七家二十八件の題記が記されている。前方の二十二件は呉昌碩の師友であり、楊峴(二件)、萬釗、費念慈、周星詒、高邕、淩霞、金爾珍、沈公周、章鈺、金爾珍、沈曾植、馬一浮、鄭孝婿、朱士林、王国維、陳三立、馮幵等二十一家の順になっている。呉昌碩の没後、子の東邁に託されたが、その後に諸宗元、冒広生、夏敬観、沈剣知、呉湖帆の五家の題記が加わった。またその後に収蔵者に依頼され、筆者が題跋を記したため、合計二十八件となった。呉昌碩自ら表具した後、逝去するまでの三十四年間に渡り、何度もこの作品を携えて題記を求め、大切に収蔵した。これらの点からも、呉昌碩自らが制作した妙品であることは明らかである。まして、当時呉昌碩は王一亭との交流はまだ始まっていなかった。呉昌碩、王一亭は一九〇九年三月に知り合ったとされているが、それはこの作品が完成してから十七年後のことである。よって代筆説は成立しない。題跋の中で楊峴は「昌碩仁弟自画山水八紙、装治成巻、癸巳(一八九三)秋、七月下榻敝斎、出視率題」(昌碩仁弟は自ら描いた山水八紙を巻物にし、一八九三年秋、七月に我が書斎にて題を記した)(図例十)。高邕の題跋にはこの作品が画室で制作されたことを指摘している。「缶廬金石家、五十学山水、昨在李盦中、一揮得八紙、天生横行筆、今古皆不是、闖入大滌堂、嚇得石濤死。」(金石家の缶廬は五十歳にして山水画を学んだ。昨日は李盦にて、一気に八枚描き、天性の運筆で、それは古今の何れにも無かったもので、大滌堂に飛び込み石濤を死ぬほど驚かせるようなものであった)また「蒼公今年忽画山水,此巻不学石濤而有石濤韻度,展玩数過,乃知此老胸中未易窺測。癸巳十月,高邕題於上海。」(蒼公は今年突然山水画を描いた。この巻子は石濤を学ばずとも、石濤の味わいがある。この巻子を数度見たが、呉老の胸中をひそかに探ることは容易いことではないと知るのであった。癸巳十月。高邕、上海にて題す)(図例十一)という明らかな証拠がある。呉昌碩が山水画に優れ、且つ非常に高いレベルであったことは事実であるといえる。ついでに指摘するなら、国内の二か所の博物館に収蔵されている双子の「聴松図」についてであるが、かつてこの作品についての真偽論争があったが、拙稿の「聴松図」及びその款識の考証において、「双子」作品は二作とも模造の贋作であることが分かった。
绘画的线条得力于石鼓文?
絵画の線は石鼓文から得たものか?
对此,笔者听到过二种议论,一认为他的绘画线条得力于他书写的石鼓文;另一说法,他的绘画线条那一笔都不是石鼓文。拙以为上述两说都囿于表象,失之偏颇,欠辩证。
古人即谓书画同源,在极大程度上即是指笔法及运笔的同源。我们素来承认书艺与画艺的互补增益作用,尤其是篆书乃至草书对绘画的滋补性。
从缶庐的个案看,他的石鼓文线条,往往也能在某些画作上得到较具象的体现,如他所画藤本花卉的枝干,简笔勾勒的物事、及人物画(图例十二)。可是,石鼓文线条决不能简单生硬地照搬,套用于绘画的。作为真正意义上的国画,尤其是吴氏的大写意画风,单论用笔即有正侧、粗细、润枯、虚实、方圆、点面、畅涩、节奏以至笔颖至笔根的迅捷或滞止的巧妙调度,此外还涉及用水的多寡,浓淡。所以古来善画而擅书者,决不至于以篆书及草书的线条机械生硬地移植于画。近者吴让之、赵之谦、齐白石、黄宾虹如此,远者赵孟頫、董其昌亦然。吴昌硕更是明其义理而恣肆发挥的。
若是从工具角度谈画笔,绘画仅用一支笔是远远不够的,尤其是不能适应大写意的画风。据笔者考察,吴氏写石鼓文用的是纯羊毫笔,且是除去锋颖部分,其笔腰至根部,均由积墨而呈板结坚实的锥状,也就是说,其书写石鼓文时仅是运用提按幅度有限的锋颖,营造的是粗细相对划一的线条。吴氏的石鼓文作品无论是早中期,还是晚年也明确地昭示了这一线状特征。
天才的缶翁,深谙书画同源而不同法。绘画对于线条乃至点画的演绎生发,远较书法繁复,他开创的复笔技艺,更需要一次乃至多次的叠加。以石鼓文的线状,按图索骥式地在他的绘画里寻觅比勘是欠常识的,而是要从由表及里,纷呈变化的笔墨的内质和神采上去作深层次的求证和体悟。以笔者的愚见,我们得感受到吴氏在其绘画新理念支配下,对臂、肘、腕、指一脉的骨骼、肌肉、神经的娴熟而精微的训练,把握和挥运。继而去玩味其飘忽而遒峭的运笔,并由此进而玩味其力挺千钧见骨力的线质,盘搏腾越的气局,动人心魄的风神,以及那扑面而来远古悠长的金石古意。从中理解到书画同源,表现殊异而情趣同归。画中见书,相辅不悖,解人自会从他的绘画里玩味到笔笔不似石鼓文线条,而笔笔又出自石鼓文线条内质的书画同工,神遇迹化的艺术表现力。
诚然,缶庐绘画里篆书功力和线条内质的彰显,也是因时段而有别的。如中壮时期,绘画线条的质感与彼时俊爽的书格相俦匹,表现为清朗渊雅(图例十三)。而其70岁后,人书俱老、画因书老,线条似万岁古藤,点划若高山坠石,与其绘画的雄强混濛也是一致的,尤其他暮年之画,堪作元气淋漓的秦汉碑碣赏玩(图例十四)。可见,绘画是线条的运动和游戏,也是与造型、色彩、构图的融合。
要言之,高妙的书法线条,是绘画的脊梁。然而,在表现形态上,书法的线条得有鲜明特质和精湛个性,但讲究的是概括、圆健、洗练,宜万法归一;而绘画的线条同样如此,但妙在变化、丰瞻、灵动,宜化一为万。两者的表现形态迥异,而其本谛——功力、修为,乃至格调、意境、风韵、本心,则是相通的,统一的。
このことについて、筆者は二つの議論を耳にした。一つは呉昌碩の絵画の線は石鼓文から得たものといい、もう一つは呉昌碩の線はどの一筆も石鼓文から得たものではないというものである。私はこれらの意見は観念に捉われており、偏りがあり弁証に欠けていると考えている。
古人は書画同源と言ったが、それはほとんどの場合、筆法及び運筆の同源を指す。私たちはもともと書芸と画芸が相互に補填し合うという作用、特に篆書や草書が絵画の栄養分となることを認識している。
呉昌碩について見てみると、呉昌碩の石鼓文の線は往々にして絵画作品の中に具体的に表現されている。例えば呉昌碩が描いた蔓植物の草花の枝と幹、簡明な線での籠書きした事物、及び人物画等である(図例十二)。しかし、石鼓文の線を決して単純に絵画に当てはめて用いることはできない。真の意味での国画、特に呉昌碩の写意画の画風において、ただ用筆だけを述べると、正側(中鋒と側筆)、太細、潤渇、虚実、方円、点面、暢渋(滑らか・滑らかではない)、リズム、そして鋒先、筆の根に至る素早い或いは停滞といった巧みな調整、この他に水の量、濃淡にまで関連する。したがって、古来より画に優れていた者は書にも堪能であったが、決して篆書及び草書の線を機械的に画中に移植したわけではなかった。近くは呉譲之、趙之謙、斉白石、黄賓虹、遠くは趙孟頫、董其昌もまた同様である。呉昌碩はそれらの道理を理解した上で、欲しいままに腕を振るったのである。
道具の面から画筆について語るなら、絵画はただ一本の筆だけでは遥かに足りないといえる。特に、写意の画風には適応できない。筆者の考察によると、呉昌碩は石鼓文を書写する際に純羊毛筆を用いていた。しかも鋒先を取り除いて、筆の腰から根の部分、等しく墨がたまり固くなった錐状の筆を用いた。つまり、石鼓文を書写する際に筆の提按(上げ下げ)幅に制限のある鋒先を用い、太さが比較的画一的になる線を作り出したのである。呉昌碩の石鼓文作品は初期中期そして晩年を問わず、明らかにこのような線の特徴を示している。
天才であった缶翁は書画が同源でありながらも法が異なることに精通していた。絵画の線や点画の演繹発展は書法よりもかなり複雑であり、彼は復筆の技芸を切り開いたが、それは一度或いは数度にわたって筆を重ねることが必要となるのであった。石鼓文の線を文字通りに彼の絵画の中に探し求め比較検討することは常識に欠けるやり方である。表から裏へと進み、様々な変化を表す筆墨の中に有する質と風采の上に深い層での証拠を求め、実践の中から感覚をつかまなければならない。筆者の愚見では、私たちは呉氏の絵画における新理念の下に、上腕、肘、腕、指とそれに連なる骨格、筋肉、神経に対して、熟練し精緻な訓練を行い、それらを把握し運筆を感じるべきである。それからその滑らかで雄健な運筆を味わい、更に進んでその非常に力強い筆力ある線質、広大な気概、魂を揺さぶる風采、そして正面に表れた悠久なる金石古意を味わうのである。その中から書画が同源であり、表現は異なるが趣が帰するところは同じだということを理解するのである。絵画の中に書法を見る。そこにはお互いの矛盾はなく、理解した人は彼の絵画の中から一筆一筆石鼓文とは似ていない線を味わい、また一筆一筆石鼓文から出た線に含まれる質から書画が同源であること、そして「神遇跡化」(頭の中で構築された芸術意識を道具を用いて具体的に表現する)の芸術的表現力を味わうのである。
実際に、呉昌碩の絵画における篆書の技術と線質は明らかであり、それは年齢によっても異なっている。例えば中年、壮年期は絵画の線質と当時の清々しくも豪放な書風は一致しており、清々しい雅さを表現している(図例十三)。七十歳以後、人、書はともに老い、画は書の老いに応じ、その線は万古の藤のように絡み合い、点画は高い山から落ちた岩石のようである。そして、その画は雄強混濛(力強くも曖昧な)であるという点で一致する。特に、晩年の画には生命力の盛んな秦漢碑碣を深く味わうことができる。以上からも絵画の線の運動と遊戯は、その造型、色彩、構図と融合していることが分かるのである。
言い換えれば、巧みな書法の線は絵画の背骨と言える。そして表現の上では、書法の線は鮮明な特徴と深い個性が必要となるが、そこで大切なことは概括、圓健、鍛錬、万法帰一(宇宙万物が一つに帰す)ことである。絵画の線も同様であるが、その妙は変化、豊富、精神が一つになり、化一為万(万の変化をする)ことである。両者の表現形態は全く異なるが、その真髄は功力(技術と力)、修養、そして格調、境地、風韻(風雅高尚)、良心であり、それは互いに通じ合い、一致している。
2017年10月5日夜于疁城豆庐
二〇一七年十月五日夜 疁城豆廬にて
附表:
图例(一)“俊卿之印”、“仓硕”朱白两面印
(刻于34岁)
図例(一)「俊卿之印」、「倉碩」朱白文両面印
(丁丑三十四歳刻)
图例(二)未脱出杨、莫书风的篆书
図例(二)楊沂孫、莫友芝風の篆書
图例(三)65岁以后显示独特风格石鼓文
図例(三)六十五歳以後、独自の風格を得た石鼓文
图例(四)“葛祖芬”印
図例(四)「葛祖芬」印
图例(五)“安平太”朱文印
図例(五)「安平太」朱文印
图例(六)“俊卿之印”、“仓硕”朱白两面印,
重剔于54岁暮春
図例(六)「俊卿之印」、「倉碩」朱白文両面印、
五十四歳暮春に一層削る
图例(七)弟子王个簃依原印摹刻
図例(七)弟子の王个簃による摸刻
图例(八-1)《山水八纸卷》
図例(八-1)『山水八紙巻』
图例(八-2)《山水八纸卷》
図例(八-2)『山水八紙巻』
图例(八-3)《山水八纸卷》
図例(八-3)『山水八紙巻』
图例(九)朱孝臧词家对题八纸
図例(九)朱孝臧詞家が八紙に対する題
图例(十)杨岘题跋
図例(十)楊峴の題跋
图例(十一)高邕题跋
図例(十一)高邕の題跋
图例(十二)人物画
図例(十二)人物画
图例(十三) 早年的绘画作品
図例(十三)早期の絵画作品
图例(十四-1)暮年的绘画作品
図例(十四-1)晩年の絵画作品
图例(十四-2)暮年的绘画作品
図例(十四-2)晩年の絵画作品
转载自“西泠在线”
END